昭和43年11月2日 夜の御理解



 節を大事にしてということを言われます。えー、それは、その人間誰しも一生涯に様々な節に出会うもんですが、その、節から折れる人もあれば、節から芽がでたり、また節から、「」伸びる人もあるわけです。ですから、節を大事にせよということは、本当に、その、大事にさせて頂く事によって、この節から芽が出る、節からまた伸びるという「」かなければ「」と思うのです。四神様の御教えの中にも、「難はみかげ」、で「難あって喜べ」とですね。教祖様は「難はみかげ」とこうおしゃっておられますが、うーん。この例えば節を難といたしますならば、その難を大事にするということがね、この、そこから「」とか、そこから一節伸びるとかいうから、難はみかげなんですよ。けども、その難を受けた、そこを通り超えただけで、「」ものもなからなければ、そこから芽が出るものも無かったら、それはやはり、難は難だと私は思うですね。ですから、そこんところをですね、私どもも、一つ、お互い「」節に出会ったら、果たしてその節から自分の信心は芽が出たんだろうか、その節から一節、こう、上に伸びただろうか、「」とするならばですね、それはただ、難や難をですね、ただ、そ、受け抜いたというだけであって、難がみかげになっていないわけなんです。ね、いわゆる「」喜べないです、それでは。ね。今日は私、「」そこんところを一つ、「」共励して頂きたいと、こう、思う、私も本当なことはようと分からん。でも、ただ体験をもって、いうならば、私「」私の信心を皆さんがま、こう、思い起こしてくだされば、「」それも、「」内容のことは分からん。ね。ですけん、あの、「」薬とかいう。そのせめて薬にしなければ「」毒は毒だということなんですよ。ね。ですから、私ども、ほんなら、こう、ずっと、うーん、信心を頂くようになって、この方10年なら10年、ね、20年なら20年という自分の信心をです、確かにあの時は節だったろう、と思われる節から果たして伸びてるか、「」ということをですね、ただ、おかげを頂いてはきたけれども、「」とするならば、ここに一つ、「」考えて「」ければならんことじゃないかとこう、思うんですね。それを境に伸びてるか、そこから芽が出ておるか、ね、「それこそ?」おー、「難はみかげ」とおっしゃる、また「難は喜べ」と。果たして、本当にそのことが喜べれるというところに「」なかったら、やはり、難は難「」のままだとういうこと。難の実態というものは、それは神愛なんです。ね、神愛なんですけれども、神愛を分かって、悟って、そ、神愛に触れなければ、ね、私は、やはり、神様もせっかんなさる。例えていうなら、言うこと聞かんから親が、こう、せっかんするようにですね、せっかんするだけで、なら、親の方が( ? )ま、お詫びもしなければ、改まりもせんもんですから、ね、(  ?  )その結果が()じゃですね、いけないでしょうが。せっかんされた、ことによってどう、変わったのか、改まったか。いわゆる神様の願いであるところをこちらが分からしてもろうて、そこのところを頂きぬいていくという信心。ね。そこのところをですね、果たして難はみかげだなと喜べる  (途中切れ)大坪安子